
「神はサイコロを振らない」
これは、アルベルト・アインシュタインが、量子力学に対して抱いた「違和感」を表した言葉です。
「神はサイコロを振らない」という言葉は、本当は「物理学」だけの言葉ではありません。
これは、
「世界は意味を持っているのか?」
という、人類がずっと問い続けてきた根源の問いです。
まず、自然を見る。
自然は、一見すると混沌に見えます。
風は気まぐれで、地震は突然起き、命は理不尽に終わる。
けれど、深く観察してみると、その奥には驚くほど精密な秩序があります。
■惑星は軌道を外れず。
■DNAは規則に従い。
■生態系は均衡を保とうとする。
つまり自然とは、
「巨大な秩序が、偶然という表情をまとっている状態」とも言えます。
アインシュタインは、その背後にある「静かな完全性」を感じとり、宇宙とは気まぐれなゲーム盤ではなく、「理解可能な美」として捉えました。
しかし量子力学の存在は、その世界観を揺らす事となります。
■電子は位置を確定できず。
■未来は確率でしか語れず。
■観測そのものが結果に影響する。
つまり宇宙の最深部では、
「世界は根本的に揺らいでいる」ように見えたのです。
ここで人類は初めて、
「宇宙そのものが ”不確定” なのではないか」という恐怖に触れたのです。
そして、その ”不確定性” を最も痛みとして受けるのが人間です。
なぜなら人間は、自然界で唯一、
「意味を欲する存在」だからです。
■石は意味を求めない。
■星も求めない。
■海も後悔しない。
でも人間だけは・・・、
★なぜ生まれたのか。
★なぜ失ったのか。
★なぜ愛したのか。
★なぜ孤独なのか。
を問い続ける。
つまり人間とは、
「 ”偶然” に耐えられない存在」とも言えます。
だから人は、”偶然” に名前を与えるのです。
■出会いを「運命」と呼び。
■痛みを「試練」と呼び。
■奇跡を「縁」と呼ぶ。
ここでようやく、「神はサイコロを振らない」の、本当の重みが見えてきます。
これは、単なる科学的反論ではなく、
「この世界は ”無意味” であってほしくない」という、祈りだったのかもしれません。
でも同時に、
量子力学側の視点もまた、人間を救っている。
もし宇宙が完全決定論だとすると、
■愛すること。
■選択すること。
■赦(ゆる)すこと。
■変わろうとすること。
すべてが最初から決まっていて、そこには「自由」が存在しません。
だから「不確定性」とは、恐怖であると同時に、「希望」でもあると言えます。
未来が完全には決まっていないからこそ、人は何度でも変われる。
さいごに
■自然には秩序がある。
■宇宙には揺らぎがある。
■そして人間は、その2つの狭間で「意味を紡ぐ存在」である。
「神は ”完全には” サイコロを振らない」
けれど、完全にも止めてはいない。
宇宙は、秩序と偶然が重なり合う ”余白” を残している。
その余白の中で、
★科学が真理を探し、
★哲学が意味を探し、
★芸術が感情を形にし、
★人間が人生を生きている。
この世界のすべてが、「未完成の詩」と、言えるのかもしれません。
アルベルト・アインシュタインは、
「全ては物事は必然であり、この世には必ず原因と結果がある。」
「今この瞬間の宇宙の状態が完全に分れば、未来も完全に予測できる。」
という、「決定論」を限りなく信頼していました。
例えばビリヤード。
球の位置、速度、角度、摩擦・・・
全部わかれば、次にドコへ転がるか計算できる。
アインシュタインは、
「宇宙全体も、本来はそれと同じハズだ」と思っていたようです。
だから量子力学の、
■「ドコに現れるかは確率です」
■「観測するまで決まっていません」
■「偶然です」
という説明が、どうしても受け入れられなかったそうです。
彼にとってソレは、
「人類がまだ法則を知らないだけ」に、見えたのかもしれません。
つまり偶然に見えるのは、「理解不足」なだけで、「本当は全部必然である」と云う立場でした。
皮肉か否か・・・
現代物理学はかなり本気で、
「宇宙には本物のランダム性があるかもしれない」
というところまで来ていることです。
つまり今の最前線では、
■完全な必然
■完全な偶然
そのどちらでもなく、
★法則に支配された不確定性
という、不思議な世界観になっているようです。

